日本社会に長い間暮らしてきた人間として強く思うのは、「自己を客観視しない価値観」が問題だと思う。失業したり、なにかひどい目にあったら、それが直接「自分自身の価値の喪失」と捉える文化がこの国にはある。仕事や学校、そのようなものに自己を同化させて、そこでの評価が絶対となっている。
自殺率が比較的低い国(アルゼンチン、英国、スペインなど)の人たちと話していて思うのは、彼らにはそのような価値観が全く理解出来ないだろうなということだ。彼らの世界は自分中心で作られており、どんなことがあってもそのせいで「自分自身の価値自体が喪失」したとまでは考えない。平たく言えば、だいたい他人か社会のせいにして、「おれ、悪くないから」で済ます。
またそれに付随することとして、日本人と議論して相手の意見に異を唱えると、とかく彼らは感情的になる。あたかも自分の存在が否定されたかのように感じるらしい。外国人との議論では前提となるのは「各自が違う意見を持っていることが当たり前」ということだ。だから、反対意見を言ったところでそこまで感情的にこじれることはない。
カウンセリングに来談する人たちの中には、人間関係に悪戦苦闘している人が多い。それどころか、人間が怖く、視線が怖く、電車に乗ると動悸(どうき)が激しくなり冷や汗が吹き出してしまうという人もいる。
その人たちの他者との関係や他者への読み、推測を聴いていると、まるで細密画を見ているような気分に襲われる。時間が空いたときにはスマホでグーグルアースを見るのが楽しみな私だが、指で拡大すると、地球の各地域がどんどん拡大され、都市の道路まで見えるようになる。それと同じような気分になるのだ。
他者の反応を息を呑(の)んで見守っているとき、客観的時間の流れとは別に、果てしなく時は長く感じられるだろう。緊張する場面(入社時の面接や、初めてのデートのときのように)では、しばしば時の流れは物理的計測とは異なる軸で動くことがある。相手の動きはコマ送りのように鮮明にとらえられ、あたかもそこに意味が発生しているかのようだ。
対人恐怖的な人たちの人間関係はそれと似ている。他者の視線にこの上なく多様な意味を付与したり、次の反応を予測するために全神経を集中したり、投げかけられた言葉の意味を何通りにも解釈したりする。その人たちの時間の長さを測る目盛は、デジタル地図を拡大するとどんどん縮尺率の分母が減少していくように、細密画のように緻密化されていくのである。
そんな世界を生きることには、どれほどのエネルギーを要することだろう。一日の終わりにがっくりと疲れてしまうし、そうなることを考えれば他者と会うことすら怖くなるだろう。時には、自分を疲れさせた他者にどうしようもなく腹が立つこともある。あまりに多様な情報や意味が押し寄せてくるために、次の反応を決めかねて恐怖に襲われることもあるだろう。
これはどこか病的な症状ともいえる状態だが、30歳以下のひとたちの集団で生まれている関係性の息苦しさとそれはつながっている。